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客観的倫理基準である良心

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Vox Ecclesiae
教会の声
 
人の生活に対する神の計画
 
しい生命に呼ばれたキリスト信者は、神の養子とされ、この世の改善のために、神の協力者として、自由意志と責任をもって生きるよう、招かれている。
 
人であることは、自由であることである。人は、選択することができるし、それゆえに、選択しなければならない。
 
どのように生きなければならないか。
私の自由は、純粋であるだろうか。
道徳的なものごとに、真摯に努力しているだろうか。
私は今、善のどのような形態を実現しつつあるだろうか。
 
人は、なすべきことの決定のため、種々の問題に取り組む時、彼は、彼の良心を働かせている、ということができる。
 
理性は、人に、種々の善の形態を追求する時、全く気ままにふるまうことを拒否するよう、内面的に要求する。
 
神の声としての良心
 
心は、人間の行動に対する、正・不正に関する実際的な判断者である。
良心の判断は、人間的愛を魅了する様々な価値を追求するにあたり、独断や鈍感さをさを避けようとする、人間の努力の結果でもある。この真摯な努力が成功する時、その人の出す結論や答えは正しい、と言える。
人は、暗黙のうちに、あるいは口に出して追求していたもの、すなわち、神の計画と、その意志の知識を獲得する。
 
世界の創造主は、良心がその存在を明らかにし、従うよう命じる、ある秩序を、人間の内奥に刻印された。
教会は、良心が正しいということは、その判断が正しく、また、神の判断と一致することである、と絶えず教えてきた。
人が、真実に、彼の愛の真の方向と基準を求めて、内心を振り返る時、人間の心の中には、人々の心を見通す神が待っておられる。
もし人が、真理と善の探求に、真実に心を傾けるならば、その時、良心の中で彼は、ただひとり、神と共にあり、神の声が人間の深奥で響くのである。
 
『人間は、良心の奥底に、法を見出す。この法は、人間がみずからに課したものではなく、人間が従わなければならないものである。この法の声は、つねに善を愛して行ない、悪を避けるよう勧め、必要に際して「これを行なえ、あれを避けよ」と、心の耳に告げる。このように人間は、心の中に、神から刻まれた法をもっており、それに従うことが、人間の尊厳なのであり、また人間は、それによって裁かれるのである』。
( 第2ヴァティカン公会議 現代世界憲章 16 )
 
良心とは、道徳の客観的要求を自覚させるものであり、人は、その良心を通じて、最高善である神の法の命じるところのものを知り、そして認めるのである。
 
この『神の法』は、あらゆる時代を超越する永遠の客観的な法であり、あらゆる世界、あらゆる地域に効力を及ぼす普遍的な法であり、人間生活における最高の規範である。
 
良心への忠実は、真理の探究における忠実であり、人の探求が正しく成功している限り、その人は盲目的選択や空望みを遠ざけることになる。
なぜなら、その人は、客観的倫理基準によって導かれているからである。
 
 
良心と過ち
 
かしながら、人それぞれの良心は絶対的なものではない。
 
実際、人は、真実である善への探求において、それが真面目に動機づけられ、知的に追求される時ですら、その人の良心の判断が、誤る可能性もある。
というのも、人の精神は、不注意、見落とし、各地域の教育における偏見の深い構造などによって、正しい判断が差し止められることがあるからである。
 
良心は、間違う危険性にさらされている。なぜなら私たちが、特別な決定に対して、善の基本的原理の把握のもとに行動する時、それらの決定について、理性的判断をするよう努めながらも、私たちは、私たちの感情と誤りやすい傾向のただなかで、行動しているからである。
 
打ち克つことのできない無知によって、良心が誤りを犯すこともまれではない。かといって、良心はその尊厳を失うわけではない。
 
全ての人は、自分の良心に従う義務がある。これは、教会博士たちの不断の教えを要約するものである。
 
聖トマス・アクイナスは次のように教えている。
 
「人がもし、良心がまったく間違っている時でさえ、自分がそれに気づかなくとも、良心に従うことを余儀なくされている。なぜなら、みなだれも、彼自身の良心的判断を、それがもし、神ご自身のものでないにしても、少なくとも真理、善、そして愛の確実な要求の表現だとして解釈しているからである」。
 
自分自身の良心を拒むことは、もし、意識的に神ご自身に対してでないにしても、少なくとも道徳的確実性に対して、背を向けることになる。
 
しかしながら、無知や誤りが、真理や善の探求における怠慢から起こる時は、許されるものではない。
それゆえ、もし人の良心が、自己満足、偏見、無分別、あるいは自己中心のために誤りを犯すとすれば、人が、その良心の命令に従おうと従うまいと、彼は、間違うことになる。
 
 
 
 
良心と権限
 
心は、特別な個人的直観によって、何が正しいかを見る問題ではない。
良心の判断は、それらがだれよりも理性的であり、また、神と人との十全な友情がそうさせるところの公平さに達した人によってなされる判断であるならば、その場合にのみ、客観性という権威をもつ。自分自身が、まさにその善な人であると、だれも確信を持つことはできない。
 
あぁ、神の富と知恵と知識の深さよ、神の定めは悟りがたく、その道は窮めがたい。いったいだれが主の想いを知っていたであろう(聖パウロ)
 
神の意志を私たちに知らしめるのは、ほかでもなく主イエズス・キリストである。この理由のために、自分自身の良心を、キリストの教えに従って導かないならば、それはキリスト信者にとって、愚かなことである。
 
キリスト信者は、キリストが命じられたいっさいのことを全ての国々に告げ知らせる使徒たちとその後継者たちの教えに、みずからの良心を従わせることによって、キリストに注意を向ける。なぜなら、使徒たちやその後継者たちの教えは、彼ら自身のものではなく、彼らを遣わされたキリストのものだからである。
 
あなたたちを受け入れる者は、私を受け入れるのであり、
私を受け入れる者は、私を遣わされた御方を受け入れるのである。
私に味方しない者は、私に反対するのであり、
私と共に集めない者は、散らしているのである。
 
リスト信者は、自分の良心を形成するに当たり、教会の確実で聖なる教え、聖なる教義、全ての信仰箇条に、忠実に従わなければならない。
 
実際、キリストの意志によって『真理の教師』とされたカトリック教会は、真理そのものであるキリストを告げ知らせ、正しく教え、それと同時に、人間性に基づく道徳の原則を、みずからに賦与された権威をもって宣言し、確証することが、その任務である。
 
以上の通り、キリスト信者は、彼の良心に従うべき権利と義務があるだけでなく、彼の良心を真理に一致させ、信仰の光の中で形成してゆく聖なる責任をも負っているのである。
 
これは主キリストのここちよい愛のくびきであり、私たちの救いであり、私たちが歩むべき唯一の狭い小道である。
 
 
Verbum Domini
主の御言葉
 
する人々よ、従順なものとなりなさい。
与えられた時を活用しなさい。
自分たちがどのように歩んでいるのか、入念に見直しなさい。
畏れおののきながら、自分の救いを、力を尽くして達成しなさい。
 
人は、自分の蒔いたものを刈り取ります。
自分の肉という畑に種を蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、
霊という畑に種を蒔く者は、霊から永遠の生命を刈り取ります。
 
神は、各々の業に応じて報いをお与えになります。
耐え忍びつつ善業を行なう者に、永遠の生命を与え、
自己本位で真理に従おうとせず、不義に従う者には、怒りと憤りを注がれます。
 
多くの人は、キリストの十字架の敵として生活しています。
彼らの行き着く先は滅びであり、地上のことしか考えていません。
 
あなたたちは、上にあるものを求めなさい。
そこでは、キリストが、神の右の座に着いておられます。
この地上のものではなく、天上のものに想いをよせなさい。
 
あなたたちの自由を、
罪を犯す足がかりとして、肉に与えてはなりません。
暗闇の業を棄てなさい。
 
肉の業は明らかです。
不倫、猥褻、好色、偶像礼拝、欺き、
占い、霊媒、魔術、敵意、悪意、殺意、怒り、妬み、
中傷、陰口、そねみ、争い、不和、仲間割れ、
泥酔、度外れた遊興、親不孝、利己心、薄情、無慈悲、
その他このたぐいのものです。
このようなことを行なう者は、神の国を受け継ぐことはできません。
 
あなたたちは、この地上に属する部分を死なせなさい。
みだらなこと、汚らわしいこと、衝動的な欲望、邪まな情欲、貪欲、
これらのことのために、不従順な人々の上に、神の怒りがくだるのです。
 
霊の結ぶ実は、
愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。
 
あなたたちは、神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、
思いやりの心、親切、へりくだり、優しさ、広い心を身にまといなさい。
 
誰に対しても寛容でありなさい。
誰も、悪に悪で返すことがないよう、よく注意しなさい。
全ての人に対して、いつも、善を行なうよう励みなさい。
互いに耐え忍び、誰かに不満があったとしても、互いに心から赦し合いなさい。
 
これら全てのことの上に、愛をまといなさい。
愛は完全さをもたらす帯です。
 
愛は隣人に悪を行ないません。
それゆえ愛は、律法を完全に果たすものです。
 
いつも喜びを忘れないようにしなさい。
絶えず祈りなさい。
どんなことにも感謝しなさい。
 
これこそ、キリスト・イエズスにおいて、
神が、あなたたちに望んでおられることなのです。
 
主イエズス・キリストの恩寵が、
あなたたちの霊と共にありますように。
 
 
 
とりあえず↑^^

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